私のライヘンバッハ・ヒーロー

君はオンリーワンでナンバーワン

私の好きな男の話~前編~

私には好きな男が6人いる。 

 

 

 

 

 

まず、岡野昭仁

彼は私の初恋の人だ。

当時アメリカに住んでいた小学生の私は、日本に関するものに飢えていた。日本のご飯、日本のお店、日本の洋服、日本の街並み、何より日本語と日本人。車で1時間半とばせば日本食や日本の雑貨、本など売っている店もあったのだが、輸送料がかかるため、安くとも正規の値段の1.5倍はする。小学生のお小遣いではとてもじゃないが、買えなかった。なのでたびたびAmazonで祖母の家に届くように本を注文し、祖母に私の家まで送ってもらっていた。それまではとにかく本を注文していた私が、初めてCDを買った日(クリックだけど)が私が彼を知るきっかけとなった日だ。あの頃私は英検2級に合格したご褒美にiPodを親に買ってもらったのだ。しかし、家にあるのは親のCDだけ。私のiPodには、私の音楽を入れたい。そう思った私はさっそくAmazonで注文することにした。しかし、遠く離れた日本の地で、今どういうアーティストが人気なのか知る由もなかった(動画サイトでバラエティばっかり見てたからお笑い芸人は知っていた)私が何故、そのCDを選んだのか。注文した日のことは覚えているのに、それだけが思い出せない。割と肝心なとこなのに!一つはっきり言えることは、私は、確かにポルノグラフィティのアルバム『foo?』とaikoのアルバム『秋 そばにいるよ』を買ったのだった。

 

foo?

foo?

 

 

秋 そばにいるよ (通常盤)

秋 そばにいるよ (通常盤)

 

 

これは私と彼の出会いでもあったし、私と音楽の出会いでもあった。注文してから約2週間後、祖母から届いたダンボール。注文した日から毎日いつ届くかそわそわして、家に着くと真っ先に母に確認しては、落胆していた毎日がようやく終わる。ダンボールを開け、手にしたCD二枚は私の手の中でキラキラ光っていた。見ていただければ納得してもらえると思うが、aikoちゃんのかわいいCDジャケットに比べ、彼らのジャケットは赤のタイル地の、とてもシンプルなものでジャケットだけ見ると心惹かれる要素はない。それなのに、かわいいaikoちゃんではなく、彼らのタイル地の方を先に開封して聴いてみようと思ったのは、たぶん祖母の家のお風呂のタイル地と似ていてノスタルジックな気分になったからである(嘘です、たぶん何の理由もない)。iPodに取り込んで、その日はもう夜が更けてしまっていたので、聴くのは明日の学校へ行くまでのスクールバスの中の楽しみにとっておくことにした。学校へと向かういつもの道路、いつもの座席、いつもの友達に囲まれ、私は初めて自分のiPodのイヤホンを耳に押し当て、私だけの音楽を聴いた。

衝撃だった。1曲目の『INNERVISIONS』からどう言葉で表していいのか分からないけど、とにかく興奮した。これだ、と思った。人間ってこんな声を出せるんだ、と心底驚いた。夢中で聴いた次の曲(『グァバジュース』)の彼の声はもう少し甘くて、その次の歌(『サウダージ』)を歌う彼の声は哀しかった。私は夢中で、もっと彼の声を聴いていたくて、スクールバスのおじさん、スピード落とせよって思った。ごめんなさい。1日なんとかいつも通り授業を受け、家に帰って血走った目で1曲目から最後の曲まで通して聴いた。これははっきりと今でも覚えているが、私はこのアルバムに7番目に収録されている、『Name is man〜君の味方〜』、この曲で、恋に落ちた。うら若き少女の初恋はまだ顔も名前も知らない男にあっさりと奪われた。

そこからぐぐって(Yahooで調べたけど)、私の好きになった相手は『岡野昭仁』という名前で、( .'ω' )みたいな顔をしているということも把握した。それからの日々は帰宅してから彼、岡野昭仁について、またはポルノグラフィティというバンドについての情報を集めることに熱中した。小学生のお小遣いは限られているもので、残念ながらCDを大人買いなどはできなかったが、祖母に彼らの出演する音楽番組を全てリストアップして送り録画してもらい、お小遣いを貯めてはCDやDVDを集めた。調べれば調べるほど、なにより聴けば聴くほど彼が好きになった。あんなに歌うときは滑舌よく一音一音を綺麗に発するのに、普通に喋ると残念な感じになることも、ライブ中の彼の目は淵まで真っ黒で何を考えているのか何が見えているのか、もしかしたら世界の果てまで知り尽くしているのかもしれないと思わせる目をしていることも。

そして忘れもしない、2006年7月22日。一時帰国で日本に滞在していた私は彼らのライブ、横浜ロマンスポルノ'06~キャッチ・ザ・ハネウマ~に参戦した。このライブのことを語ったらキリがないのでやめとくが、もう、ほんとうに、幸せな時間で、楽しくて、大好きがとまらなくて、たぶん私はこれからもずっとこの人、そしてポルノグラフィティのことが好きなんだろうなと確信していた。14年の時間が流れた今日この時も、やっぱり私は彼が好きで好きで仕方がない。結婚を知ったあの日は、別に私なんかと彼がどうにかなっちゃうなんて考えたこともなかったけど、さんざん泣いて声が枯れるほど泣き叫んで目もパンパンに腫れて鼻水ぐちょぐちょだったけど。それでも結局、私はいつだって彼のことが大好きだ。彼の声と出会ってからの14年間の私の毎日は、楽しかったことも悲しかったことも苦しかったことも、全て彼の声で彩られている。

 

 

 

 

 

 

そして、新藤晴一

彼は誰よりも言葉に愛された人だった。そんな彼に私は恋をした。

岡野昭仁の歌声に惚れて以来、私は取り憑かれたようにポルノグラフィティの音楽を摂取した。その中で、岡野昭仁が唄う言葉の美しさ、繊細さに気づくようになった。新藤晴一が書く言葉たちは現実世界から少し浮いていて、とても柔らかで、なのに拭えない悲しさがあった。つついたらすぐ割れてしまうシャボン玉みたいだ。私は彼が紡ぐ言葉に夢中になった。決定的だったのが、ポルノグラフィティの1stアルバム『ロマンチスト・エゴイスト』収録の『憂色~Love is you~』の歌詞だった。

 

ロマンチスト・エゴイスト

ロマンチスト・エゴイスト

 

 

耳が痛くなるくらい重い静けさに閉ざされて

息をひそめてひとり朝を待っているよ

 

私はこの時、初めて静寂にも音があることを知った。静寂も本当は、聞こえるものなのだ。ひどく心が寂しい夜、耳をすましてみる。音がしない。それは、静けさとは、違った。壁も天井も、全てがわんわんと迫ってくるような気がする。圧迫感に思わず目を閉じ、そして何もない暗闇と音の無い世界に、どこかこの世界ではないところに落ち込んだような気がして怖くなって、目を開ける。新藤晴一の言葉によって私は今まで自分が当たり前に信じていた世界は世界の全てではないことを知った。そして私は、私を知らない世界へ導いてくれる、彼に恋をした。

彼はまるでオーダーメイドの服を着せるようにそれ以外には表現のしようが無いような表現をしてみせる。それがどんなひどい失恋の曲であっても、夏にふさわしいロックチューンであっても、彼の言葉は常に清潔で淡い色をしている。初めて日本語を美しいと思い、言葉の尊さを想った。一字一字見落としたくなくて、文字通り目を皿にして、隅々まで歌詞カードを読んだ。そうすれば、彼が見ている世界が自分にも見える様なきがして。

そして単純に彼の顔や性格もタイプである。キツそうな顔をしているのに、特徴的にうねった唇から発せられるのはハイトーン舌足らずボイス。最初に彼が喋っているのを聞いたときは、アフレコしているのかと思った。そのくらい見た目と声がマッチしない。愛おしすぎ。何か悪いことを思いついたときのキラキラ光る瞳とか、人一倍負けず嫌いなところとか、誰よりも「ロックバンド」に対する憧れとコンプレックスがあるところも。そういう一つ一つが大好きで愛おしくてたまらない!すき。

私の考え方や生き方に最も影響を与えたのが彼だと思う。私という人間を形成するにあたって新藤晴一という要素は切っても切り離せない。彼の言葉に何度助けられ、何回道しるべにしていたのか分からない。私のバイブルは彼の言葉である。彼の詞について書き始めると終わる気がしないので、これはまた他の記事で。新藤晴一が書いた詩を、岡野昭仁が唄う。なんてすばらしい世界なんだろう。

 

 

 

 

 

 

次に現れたのが、エフゲニー・プルシェンコ

私が好きになる最初で最後のスポーツ選手。

6人の中で彼だけ異色だと思う。私は基本的にスポーツは苦手だし、観戦するのも特別好きなわけではない。そんな私が唯一好きになったスポーツがフィギュアスケートで、そのきっかけでもあるし、私の好きなフィギュアスケートにはいつだって彼がいる。彼そのものがフィギュアスケートなのだ。

2006年、トリノ五輪。アメリカの地でただなんとなく、ライブ中継していたフィギュアスケート男子SPを見ていた。それは読書をしていて、たまたまテレビがついていたとか、本当にそんなものだったと思う。しかし、トスカにのせてリンクを駆ける彼に私は一瞬で恋に落ちた。フィギュアスケートのルールも分からない私の目にも、彼は圧倒的な存在感でうつっていた。まだSPの時点で、彼が彼以外の選手に負ける姿は想像出来なかった。それくらいあの時の彼は氷を支配していた。なにより彼の四回転は彼だけのものだった。


Evgeni Plushenko Tosca Sp Olympics Torino 2006

 

それからは母とともに全米各地のショーに足を運び、私自身もフィギュアスケートを習うようになった(北米ではフィギュアスケートは一般的な習い事でもあった)。ルールを少しずつ覚え、たくさんの素晴らしい選手たちを知っていったが、彼以上に私の心を揺さぶる選手は結局今日まで現れなかった。

彼のフィギュアスケート人生は決して平坦な道ではない。しかし、ファンである私が思わず目を背けたくなるような試合の時も、もういいよ十分頑張ったよ無理しないでと勝手に願っている時も、どんな時でも彼は一度もフィギュアスケートを諦めようとはしなかった。輝かしいタイトルや経歴を手にした後も、誰よりも真摯にフィギュアスケートと向き合い、フィギュアスケートの発展を願った。氷に愛され、氷の上で生きることを選んだ彼は、フィギュアスケーターとして生きる以外の道を知らない。そして、彼はどんなときだって四回転を手放さなかった。膝や腰を犠牲にしても、彼は四回転を跳び続けた。

2015-2016年シーズンの試合を全て欠場をした彼は、来年4月に腰の再手術を控えている。ボロボロの身体でも彼は競技としてのフィギュアスケートを諦めない。この先どんな決断を彼がし、どんな道を進むのか、ファンである私も想像がつかない。彼はいつだって私たちの予想をいい意味でも悪い意味でも裏切ってきた。ただひとつ確かなことは、私は彼がフィギュアスケート靴を脱ぐその日まで、フィギュアスケーターエフゲニー・プルシェンコのファンであるということだけだ。そして彼とともに四回転の夢を見続ける。